
静寂に包まれた和室。い草の香りが鼻腔をくすぐり、張り詰めた空気が肌を刺す。
「パチリ」
硬質な駒音が響き渡るとき、盤を挟んで対峙する二人の棋士は、まるで彫像のように動かない。その膝は畳に深く沈み込み、背筋は天を突くように伸びている。
将棋の対局と聞いて、多くの人が思い浮かべるのはこの「正座」の姿ではないでしょうか。
長時間にわたり微動だにせず、盤上の宇宙に没入するその姿は、求道者の祈りにも似た美しさを湛えています。しかし、ふと疑問が湧いてきませんか?
「あれほど長い時間、足はしびれないのだろうか?」
「もし正座ができなくなったら、棋士を辞めなければならないのだろうか?」
「そもそも、なぜ椅子ではいけないのだろう?」
本記事では、将棋における「正座」という身体技法に焦点を当て、その歴史的背景から現代における切実な「膝問題」までを徹底的に深掘りします。これは単なるマナーの解説ではありません。正座という極限の姿勢を通して見えてくる、棋士たちの精神性と、伝統と革新の狭間で揺れる将棋界の物語です。
数々の名局が生まれた畳の上で、棋士たちは何と戦い、何を耐え忍んできたのか。その足元に隠されたドラマを紐解いていきましょう。
【本記事の信頼性】
本記事は、公益社団法人日本将棋連盟の公式情報、及び大手報道機関による棋界ニュースに基づき執筆されています。
公益社団法人 日本将棋連盟
朝日新聞デジタル:将棋
毎日新聞:将棋
将棋の正座はルール?マナー?

結論から言えば、将棋の公式戦において「終始正座でなければならない」という明文化されたルールは存在しません。日本将棋連盟が定める「対局規定」の条文を隅々まで読んでも、「正座」を義務付ける一文は見当たらないのです。
しかし、タイトル戦の生中継を見れば、対局開始時にあぐらをかいている棋士は皆無です。誰もが厳粛な面持ちで正座をし、深く頭を下げてから初手を指します。これはなぜでしょうか。
そこには、ルールブックには書かれていない、もっと根源的な「不文律」と「美学」が存在するのです。
将棋を指すときの座り方
将棋における座り方は、単なる姿勢ではありません。それは対局相手への敬意の表現であり、自分自身の精神を整える儀式でもあります。
公式戦、特にタイトル戦のような晴れ舞台では、対局者は開始時刻の数分前に入室します。上座にタイトル保持者や高段者が座り、下座に挑戦者や低段者が座る。この序列も厳格です。そして、両者が盤を挟んで正座し、駒を並べ始めます。
この「大橋流」や「伊藤流」と呼ばれる作法で駒を並べる間、部屋には駒がぶつかる乾いた音だけが響きます。この時間、彼らは正座の姿勢で呼吸を整え、戦いの場(フィールド)を構築しているのです。
対局開始の定刻になり、立会人が「時間になりました」と告げると、互いに「お願いします」と一礼します。この一礼の深さ、美しさこそが、棋士の品格を物語ります。背筋を伸ばし、両手を膝の前に突き、畳に額がつくほどに頭を下げる。この瞬間、正座は最も美しい「礼」の形となります。
もちろん、対局は朝から夜、時には深夜にまで及びます。10時間を超える長丁場において、ずっと正座を崩さない棋士は稀です。中盤以降、思考の海に沈むにつれて、足を崩したり、あぐらをかいたり、時には脇息(きょうそく)にもたれかかったりします。しかし、勝負が決着する「終局」の瞬間には、再び襟を正し、正座に戻る棋士がほとんどです。
「負けました」
投了を告げるとき、そして感想戦を行うとき、彼らは再び正座に戻り、盤面と、そして相手と向き合います。始まりと終わりを正座で締める。これが将棋における「座り方」の本質であり、礼節の基本なのです。
これから将棋を始めたい、あるいはプロの所作を学びたいという方は、まずは形から入るのも良いでしょう。ココナラの指導対局・棋譜添削などでプロや強豪から直接指導を受ける際も、画面越しであれ、背筋を伸ばした姿勢で臨むことで、得られる学びの質が変わってくるかもしれません。
なぜ正座?
では、なぜ将棋は「正座」なのでしょうか。西洋のチェスが椅子に座って行われるのとは対照的です。この問いに対する答えは、日本の歴史と文化の深層に眠っています。
1. 御城将棋の伝統
江戸時代、将棋は幕府の公認となり、将軍の御前で指す「御城将棋(おしろしょうぎ)」が行われていました。将軍家という絶対的な権力者の前で、あぐらをかくことなど許されるはずがありません。公式の場における最上級の礼儀作法として、正座が採用されたのは必然でした。この「御前試合」の緊張感と形式美が、現代のタイトル戦にも脈々と受け継がれています。
2. 武道・茶道との共通性
将棋は「盤上の格闘技」とも呼ばれますが、精神性は武道や茶道に通じます。剣道や柔道、弓道が正座で黙想し、精神統一を図るように、将棋もまた、正座によって下丹田(へその下)に力を込め、不動の心を養います。
正座は、骨盤を立て、背骨をS字カーブに保つのに理にかなった姿勢です(慣れていれば、ですが)。この姿勢は深い呼吸を促し、脳への酸素供給を安定させます。極限の集中力が求められる棋士にとって、正座は単なるルールではなく、脳のパフォーマンスを最大化するための「戦闘態勢」でもあるのです。
3. 畳文化と空間の美学
日本の家屋は畳を中心に設計されてきました。視線の低い位置で生活する文化において、正座は最も安定し、かつ美しいシルエットを生み出します。将棋盤の高さ、駒の大きさ、そして対局室の広さ。すべては、人間が畳に座ったときに最も調和するように作られています。
この歴史的背景を知ると、将棋中継の見え方が変わってくるはずです。もし、将棋の歴史や文化についてさらに深く知りたければ、Kindleで関連書籍を探してみるのも一興です。江戸時代の棋士たちの生き様を描いた小説などは、現代の対局にも通じる熱気を感じさせてくれるでしょう。
しびれない?つらい?
「そうは言っても、足がしびれるのは生理現象だろう」
その通りです。どんなに高名な棋士であっても、人間である以上、血管が圧迫されれば血流は滞り、神経は悲鳴を上げます。しかし、彼らは「しびれ」とどのように付き合っているのでしょうか。
実は、多くのプロ棋士は「しびれにくい座り方」を体得しています。重心を微妙に左右に移動させたり、足の親指を重ね合わせる位置を変えたりして、一点に圧力がかかり続けるのを防いでいるのです。また、長年の修練により、足首や膝の関節が柔軟になり、一般の人よりも負担がかかりにくい体質になっていることもあります。
それでも、限界はあります。
昭和の名棋士たちの中には、「足がしびれて立てない」という理由で、トイレに行く際に這って行ったという豪快かつ壮絶なエピソードも残されています。また、対局後に立ち上がろうとして転倒しそうになるシーンも、稀に見受けられます。
「しびれ」は、単なる痛み以上の敵です。足の感覚が麻痺すると、脳への血流にも影響が出かねず、思考のノイズとなります。また、しびれを気にするあまり集中力が途切れれば、それが命取りになる世界です。
かつて羽生善治九段は、「職業病は腰と足の痛み」と語ったことがあります。何十年にもわたり、年間数十局、一局あたり数時間から数十時間。この膨大な時間を正座で過ごすことは、人体にとって過酷な試練です。膝の半月板を損傷したり、慢性的な腰痛に悩まされたりする棋士は後を絶ちません。
彼らが涼しい顔で盤面を見つめているその下で、足は悲鳴を上げ、膝はきしみ、それでもなお「不動」を貫いている。その姿は、肉体の限界を超えた精神の戦いそのものです。
正座できないと引退?
かつて、将棋界には「正座ができなくなったら棋士として終わり」という残酷な空気が漂っていた時代がありました。
その象徴的なエピソードとして語られるのが、「実力制第四代名人」升田幸三です。
「新手一生」を掲げ、常識にとらわれない将棋でファンを魅了した升田も、晩年は病と足の衰えに苦しみました。彼は将棋連盟に対し「椅子対局」を要望しましたが、当時の保守的な空気の中ではその願いは聞き入れられず、結果として引退の一因になったと言われています(もちろん、引退の理由は複合的ですが、正座の苦痛が大きなウェイトを占めていたことは想像に難くありません)。
もし、あの時代に柔軟な対応がなされていれば、升田将棋をもっと長く見られたかもしれない――そう嘆くオールドファンは少なくありません。
また、淡路仁茂九段など、ベテラン棋士の中には、正座の負担が限界に達し、現役続行を断念せざるを得なかったケースも存在します。彼らにとって、頭脳はまだ戦えても、それを支える「足」が先に折れてしまったのです。
しかし、時代は変わりました。
現代では、「正座ができない=引退」という図式は崩れつつあります。日本将棋連盟は、棋士の健康とパフォーマンス維持を重視し、医師の診断書など正当な理由があれば、椅子での対局(あるいは座椅子や高座椅子)を認めるようになっています。
とはいえ、それはあくまで「特例」や「配慮」という枠組みでの話であり、和室での対局が基本であることに変わりはありませんでした。しかし、近年の新将棋会館の移転・整備に伴い、最初から「椅子対局室」が設計されるなど、環境面でのバリアフリー化が急速に進んでいます。
この変化は、将棋という伝統文化が、現代の価値観や医学的見地を取り入れ、持続可能な形へと進化している証左とも言えるでしょう。
もしあなたが、過去の名棋士たちの棋譜やエピソードに触れたいなら、Kindle Unlimitedで古い将棋雑誌や観戦記を読み漁ることをお勧めします。そこには、畳の上で苦闘し、散っていった男たちの汗と涙の記録が刻まれています。
あぐらでも良い?
「正座がつらいなら、あぐらをかけばいいじゃないか」
そう思う方も多いでしょう。実際、対局中における「あぐら」は、ルール違反ではありません。
中盤戦に入り、長考合戦になると、多くの棋士が正座を崩します。片膝を立てたり、完全にあぐらになったり、時には足を投げ出すような姿勢になることもあります(さすがに足を相手に向けるのはマナー違反とされますが)。
特に、和服での対局となるタイトル戦では、袴(はかま)が足元を隠してくれるため、あぐらをかいても見た目の品格が大きく損なわれることはありません。脇息(きょうそく)という、肘を置くための道具も、あぐらの姿勢で使うことを前提とした高さになっています。
しかし、ここにも「暗黙の美学」が存在します。
- 開始と終了の礼は必ず正座で行う。
- 相手が席を外している間は足を崩しても、相手が戻ってきたら居住まいを正す(あるいはその逆)。
- 上位者(タイトル保持者など)が崩すまでは、下位者は崩さない(これは絶対ではありませんが、遠慮する若手は多いです)。
また、座布団の使用に関しても面白い話があります。通常、タイトル戦などでは分厚いフカフカの座布団が用意されますが、これを二つ折りにして高さを出し、膝への負担を減らす工夫をする棋士もいます。これは「あぐら」と「正座」の中間のような座り方をサポートするための、現場の知恵です。
重要なのは、「あぐらをかいても良いが、だらしない態度は許されない」ということです。盤に向かう視線の鋭さ、指し手の美しさが保たれていれば、足の形がどうあれ、その姿は「棋士」として成立するのです。
椅子対局はなぜ?
近年、将棋界では「椅子対局」が急速に普及しています。テレビ棋戦や公開対局だけでなく、公式戦の予選などでも、会議室のような部屋で机と椅子を使って対局する光景が当たり前になってきました。
なぜ、伝統の畳を捨ててまで椅子を選ぶのでしょうか。
最大の理由は、やはり「棋士の身体的負担の軽減」です。
前述の通り、長時間の正座は膝や腰に深刻なダメージを与えます。若いうちは耐えられても、40代、50代と年齢を重ねるにつれ、そのダメージは蓄積し、選手生命を縮める要因となります。
また、現代人の生活様式の変化も無視できません。今の若手棋士たちは、畳のない家で育ち、学校でも椅子生活を送ってきました。日常生活で正座をする機会が激減している中で、対局の時だけ何時間も正座を強いられるのは、過去の時代以上に過酷な条件と言えます。
さらに、国際普及の観点もあります。海外のプレイヤーにとって、正座は「苦行」以外の何物でもありません。将棋を世界的なマインドスポーツとして広めるためには、正座というハードルを取り払い、椅子対局を標準化することが合理的なのです。
2024年に移転・オープンした新しい将棋会館(千駄ヶ谷・高槻)では、対局室の多くが椅子対局に対応した設計になっています。畳の部屋であっても、テーブルと椅子を配置できる「和洋折衷」のスタイルが採用されることもあります。
これは決して伝統の破壊ではありません。むしろ、「最高の将棋を指す」という本質を守るために、形式を柔軟に変化させているのです。盤上の戦いが高度化し、AI研究による事前準備の負荷も増大する現代将棋において、対局環境の快適化は必然の流れと言えるでしょう。
渡辺9段の正座事件
「正座か、椅子か」という議論を一気に加速させ、将棋ファンのみならず世間に衝撃を与えた出来事がありました。それが、2024年12月に起きた「渡辺明九段の不戦敗」、通称「正座事件」です。
かつて「永世竜王」「永世棋王」の資格を獲得し、将棋界のトップに君臨し続けてきた渡辺明九段。彼は、以前から自身のブログやSNSで、膝の不調を訴えていました。
2024年12月13日、第83期A級順位戦6回戦、対千田翔太八段戦。
この日、渡辺九段は通常通り対局に臨んでいましたが、夕食休憩明けに異変が起きました。なんと、膝の激痛により対局続行が不可能となり、自ら「不戦敗」を申し出たのです。
対局中の負傷による不戦敗は極めて異例です。しかも、その原因が「正座による膝のダメージ」だったことが判明し、大きな波紋を呼びました。
実は、渡辺九段はこの対局の前、12月6日の竜王戦ランキング戦では、事前に申請して「椅子対局」を行っていました。しかし、順位戦という伝統ある舞台、そして相手への配慮などもあったのでしょうか、あるいは一時的に調子が戻ったと判断したのでしょうか、この日は畳での対局を選択していました。その結果、半月板損傷や靭帯損傷の疑いが生じるほどの深刻な状態に陥ってしまったのです。
この事件は、以下の2点を浮き彫りにしました。
- トップ棋士であっても、正座の負担は限界を超えていること。
- 無理をして正座を続けることが、結果として対局の成立さえ危うくすること。
ネット上では、「プロなら正座して当然」という古い意見は影を潜め、「早く椅子対局を完全導入すべき」「名棋士の選手生命を守ってほしい」という声が溢れました。渡辺九段の勇気ある(そして無念の)決断は、将棋界における「正座神話」に終止符を打つ、ひとつの転換点になったと言えるかもしれません。
この事件以降、椅子対局への移行はさらに加速し、対局者の健康管理に対する意識も高まっています。
私の見解・考察:痛みというノイズを消すための進化
最後に、一人の将棋ファンとして、近年の「椅子対局」への移行について考察を述べたいと思います。
結論から言えば、私はこの変化を「将棋が『道(どう)』から『競技』へと純化していくための必然的な進化」だと捉えています。
かつて、将棋は「武道」の側面が強く、苦痛に耐えること、不動の姿勢を貫くことも含めて「芸」とされていました。昭和の棋界において、正座は単なる座り方ではなく、棋士の「胆力」を測るバロメーターでもあったのです。
しかし、AIの台頭により、将棋の技術体系は爆発的に高度化しました。人間が到達できる読みの深さは、かつての常識を遥かに超えつつあります。1ミリのミスも許されない、1秒の思考も無駄にできない現代将棋において、「足のしびれ」という身体的負荷は、あまりにも不合理なハンデキャップとなりつつあります。
渡辺明九段の不戦敗(正座事件)は、まさにその限界点が露呈した象徴的な出来事でした。あれは「伝統の崩壊」ではなく、「肉体が頭脳の進化に追いつけなくなった悲鳴」だったのではないでしょうか。
椅子対局の導入は、棋士を「痛み」という呪縛から解放し、純粋な「読み」の勝負へと回帰させるための改革です。それは伝統を捨てることではなく、「最高の将棋を世に残す」という最上位の目的を守るための英断だと言えます。
もちろん、畳と座布団が織りなす和の様式美には、代えがたい魅力があります。タイトル戦の厳かな空気感は、やはり正座だからこそ生まれるものでしょう。
だからこそ、これからは「ハレの日(タイトル戦)」の様式美としての正座と、「ケの日(順位戦や予選)」の実利としての椅子対局が、うまく共存していく未来が理想的ではないでしょうか。
私たちは今、数百年の歴史を持つ将棋という文化が、その核となる魂を守りながら、殻を脱ぎ捨てて新しく生まれ変わろうとする瞬間に立ち会っているのかもしれません。そう思うと、パイプ椅子に座って指される将棋でさえも、また違った美しさを帯びて見えてくるのです。
これからの将棋界がどう変化していくのか、棋書や観戦記を通じて、その歴史の証人として見守り続けていきたいと思います。
将棋は正座がルール?それ以外の暗黙のルールやマナーは?

正座が「明文化されたルールではないが、実質的なスタンダード」であることはお分かりいただけたかと思います。では、将棋界には他にどのような「暗黙のルール」や「マナー」が存在するのでしょうか。
将棋の対局規定には、反則負けとなる「二歩」や「打ち歩詰め」、「千日手」などの技術的なルールは細かく記されています。しかし、それ以上に棋士たちを縛り、同時にその存在を輝かせているのは、礼節に基づいた振る舞いです。
暗黙のルール・マナー
プロ棋士の対局を見ていると、言葉を交わさずとも成立している高度なコミュニケーションがあることに気づきます。それは、互いが「棋道」という共通の価値観を持っているからこそ成り立つものです。
| 項目 | 内容と振る舞い | 意味・背景 |
|---|---|---|
| 投了の作法 | 敗勢を悟った際、「負けました」とはっきり発声し、頭を下げて意思表示をする。 | 潔く負けを認める「敗者の美学」。王将を取られるまで指すのは、プロ間では失礼とされることもある。 |
| 感想戦 | 終局直後、初手から、あるいは勝負所から指し直し、互いに良し悪しを検討する。 | 勝敗を超えた「真理の探究」。敗者が自らの傷口を開くような行為だが、これを拒否する棋士はいない。 |
| 手番中の離席 | 自分の手番(考慮中)には席を立たないのが基本。 | 相手の手番中に席を立つのは自由だが、自分が考えている時間に相手を待たせるのは不誠実とされる。 |
| 駒音と扇子 | 駒を叩きつけすぎない。扇子を開閉して音を鳴らしすぎない。 | 相手の集中力を削ぐ行為は「盤外戦」と見なされ、嫌われる。ただし、気合いを表す適度な駒音は許容される。 |
特に重要視されるのが「投了」と「感想戦」です。
スポーツの世界では最後まで諦めずに戦うことが美徳とされる場合が多いですが、将棋においては「これ以上指しても逆転の見込みがない」と判断した時点で、潔く投了することが求められます。まだ詰まされていないのに、自ら頭を下げて負けを認める。この瞬間の敗者の横顔には、勝者以上の悲哀と品格が宿ります。
そして、戦いが終わった直後に始まる「感想戦」。
さっきまで死闘を繰り広げていた二人が、今度は協力して「あの局面はどうだったか」「この手が良かったのではないか」と検証を始めます。敗者にとっては、自分が間違えた瞬間、負けにつながった一手と向き合う苦痛の時間でもあります。しかし、それを経なければ強くなれないことを、彼らは知っています。
この感想戦の様子は、ABEMA将棋チャンネルなどの中継で最後まで見ることができます。対局中の鬼のような形相から一転、笑顔を交えながら盤を囲む二人の姿に、将棋というゲームの奥深さを感じずにはいられません。
また、盤外のドラマや棋士の日常を知るには、将棋アニメ・映画・漫画・小説・ラノベなどの作品に触れるのも良いでしょう。『3月のライオン』や『りゅうおうのおしごと!』など、マナーやしきたりを含めた将棋界のリアルな空気が描かれています。
よくある質問Q&A

Q1:足がしびれて立てない時はどうするのですか?
無理に立とうとせず、感覚が戻るまで待ちます。対局終了後、しばらく盤の前で動かない棋士がいますが、これは感想戦の準備をしているだけでなく、足のしびれが取れるのを待っている場合もあります。
トイレなどでどうしても移動が必要な場合は、這うようにして移動することも、過去にはありました。現在では、そうなる前に足を崩す棋士が多いです。
Q2:椅子対局だと、和服(袴)は着ないのですか?
椅子対局であっても、タイトル戦などの重要な対局では和服を着用します。袴を穿いて椅子に座る姿は一見不思議に見えるかもしれませんが、伝統と現代の融合として定着しつつあります。
囲碁将棋チャンネルのテレビ棋戦(銀河戦など)では、セットの都合上、和服でも椅子対局というケースが見られます。
Q3:アマチュアの大会でも正座は必須ですか?
いいえ、必須ではありません。市民大会や道場などでは、公民館の会議室などが会場となることが多く、机と椅子での対局が一般的です。
畳の会場であっても、正座ができない方には座椅子を用意したり、あぐらを許可したりするなど、柔軟に対応してくれます。道具にこだわりたい方は、将棋盤を購入して自宅で楽しむのも良いですが、まずは気軽に参加して大丈夫です。
Q4:将棋を覚えるにはどうすればいいですか?
まずはルールを覚えることから始めましょう。今は棋書だけでなく、動画やアプリも充実しています。DMM TVなどの動画配信サービスで将棋関連のコンテンツを探してみるのも手軽な入り口です。また、電子書籍ならブックライブなどで入門書をすぐに入手できます。
まとめ:将棋の正座ルール、美しき苦行。痺れる足が問う伝統と椅子の未来

い草の香りが漂う静寂の中で、膝を折り、背筋を正して盤に向かう。
将棋における「正座」は、単なる座り方を超えた、棋士たちの精神性を象徴する儀式でした。それは御城将棋から続く歴史の重みであり、対戦相手への敬意の表れであり、そして己の心を「不動」にするためのスイッチでもあります。
しかし、記事中で触れたように、その美学の裏側には、棋士たちの肉体的な苦痛と、選手生命を賭けた戦いがありました。渡辺明九段の不戦敗という衝撃的な出来事は、私たちに「伝統を守ること」と「人を守ること」のバランスを問いかけました。
結論として、現代の将棋界において「正座ができない=引退」ではありません。
将棋連盟は椅子対局の導入を進め、新しい将棋会館にはそのための設備が整えられています。あぐらも、そして椅子も、最高のパフォーマンスを発揮するための選択肢として認められる時代になりました。
それでもなお、タイトル戦の開幕で、両対局者が美しく正座をし、深々と頭を下げる姿に私たちが心を打たれるのはなぜでしょうか。それは、形が変わっても、その根底にある「礼」と「道」の精神が変わっていないからに他なりません。
これからの将棋観戦では、盤上の手だけでなく、棋士たちの「座り方」や「所作」にもぜひ注目してみてください。苦しい局面で膝を組み替える仕草、投了の瞬間に正座に戻る潔さ。そこには、言葉にできない人間ドラマが凝縮されています。
そしてもし、あなた自身が将棋を指す機会があれば、たとえ椅子であっても、最初と最後だけは背筋を伸ばし、「お願いします」「負けました」と言ってみてください。その瞬間、あなたは数百年の歴史を持つ「棋道」の一部となるのです。
まずは手始めに、自分だけの将棋駒を手に取って、その感触を確かめてみてはいかがでしょうか。指先から伝わる伝統の重みが、あなたの日常に静謐な時間をもたらしてくれるはずです。

