
静寂に包まれた和室。張り詰めた空気の中、駒が盤を打つ「パチリ」という乾いた音だけが響き渡る。 その音は、単なる物理的な衝撃音ではありません。それは、数百年の歴史を背負い、己の知能と精神を極限まで研ぎ澄ませた者たちが奏でる、魂の旋律です。
将棋の世界に魅せられた私たちが、彼ら——現代の剣豪とも呼ぶべきプロ棋士たち——に敬意を表するとき、その名前をどう呼ぶべきか迷う瞬間があります。 「先生」と呼ぶべきか、「段位」をつけるべきか、それとも「タイトル」で呼ぶのが礼儀なのか。
その呼び方の一つひとつには、将棋界という特殊な世界の階級、歴史、そして畏敬の念が込められています。 本記事では、将棋のプロの呼び方を入り口として、その奥に広がる深淵なる「プロ棋士」の世界を、極限まで深掘りしていきます。 盤上の格闘家たちの実像を知れば、次の一手を見る目が、きっと変わるはずです。
【本記事の信頼性】
本記事は、公益社団法人 日本将棋連盟が公表する公式規定、および大手報道機関(Number Web等)による確かな統計データに基づき執筆されています。
将棋のプロの呼び方

将棋中継を見ていると、解説者が対局者を「〇〇先生」「〇〇八段」「〇〇竜王」と、様々な呼び方で紹介していることに気づくでしょう。 この呼び方の使い分けは、単なるルールの羅列ではなく、相手への「リスペクトの距離感」を測るための美しい作法でもあります。
基本は「氏名+段位」または「先生」
最も基本的、かつ失礼のない呼び方は、氏名に段位をつける形です。「羽生善治九段」「藤井聡太九段」といった具合です。 メディアや公式な記録ではこの形が標準とされます。
しかし、私たちがイベントや指導対局で棋士と対面した際、あるいは手紙を書く際に「〇〇九段」と呼ぶのは、少し硬く、よそよそしい響きを含んでしまいます。 そこで使われるのが、魔法の言葉「先生」です。
「羽生先生、お願いします」「藤井先生、握手してください」
将棋界において、プロ棋士はすべてのファンにとっての「師」であり、尊敬すべき「先生」です。 どんなに若い棋士であっても、プロである以上は「先生」と呼ぶのが最も無難であり、かつ親愛の情を込められる呼び方です。 もしあなたが指導対局を受ける機会があれば、指導対局・棋譜添削の場でも、まずは「先生」と呼びかけることから始めてみてください。その一言で、盤上のコミュニケーションは円滑になります。
タイトル保持者への敬意
将棋界には、現在8つの主要なタイトルが存在します(竜王、名人、王位、叡王、王座、棋王、王将、棋聖)。 これらのタイトルを獲得した棋士は、段位ではなく「タイトル名」で呼ばれることが許されます。これは、選ばれし者だけが許された特権であり、最高峰の栄誉です。
- 原則:その時点で保持しているタイトル名で呼ぶ(例:藤井竜王、渡辺名人)。
- 複数を保持している場合:最高位のタイトル、または複数のタイトルを並べて呼ぶ(例:藤井竜王・名人)。
特に「竜王」と「名人」は別格の存在とされ、将棋界の二大巨頭として扱われます。 もし一人の棋士が多数のタイトルを持っていても、基本的にはこの二つのどちらか、あるいは両方を冠して呼ばれることが多いのです。
女性のプロ「女流棋士」の呼び方
女性のプロである「女流棋士」の場合も、基本は男性棋士と同じく「先生」や「女流〇段」と呼びます。 タイトルを持っている場合は、「西山女流三冠」「福間女流五冠」のように呼ばれます。 ここでもやはり、直接話しかける際は「〇〇先生」が最も美しく響きます。
私の見解・考察:呼び方が引く「聖域」への境界線
なぜ、将棋界ではこれほどまでに頑なに「肩書き」や「敬称」を重んじるのか。 私は、それがプロ棋士という特異な存在を守るための「結界」のような役割を果たしているのではないかと考察しています。
「先生」という名の防波堤
プロ棋士は、盤上という孤独な荒野で、常に自己の存在意義を賭けて戦っています。 その精神状態は、私たちが想像するよりも遥かに繊細で、鋭利なガラス細工のようです。 もし、ファンや関係者が彼らを馴れ馴れしく「〇〇ちゃん」や「呼び捨て」で呼んでしまったらどうなるでしょう。 日常というぬるま湯が彼らの足元に流れ込み、極限まで張り詰めた「勝負師の魔性」を薄めてしまうかもしれません。
私たちが彼らを「先生」「竜王」「名人」と呼ぶことは、彼らを崇めると同時に、「あなたは私たちとは違う世界(聖域)の住人である」という事実を、残酷なまでに明確にする行為でもあります。 将棋を題材にした作品の中で、棋士が孤独に描かれることが多いのも、この不可視の境界線ゆえでしょう。
リスペクトこそが最強の観戦術
また、正しい呼び方をすることは、観る側にとってもメリットがあります。 相手を「先生」と呼ぶことで、私たちは無意識のうちに「学ぶ姿勢」になります。 「なぜ先生はこの手を指したのか?」「この難解な局面で何を考えているのか?」 敬意を持つことで、私たちの思考の解像度は上がり、ただの駒の動きが「物語」へと昇華されるのです。
将棋のプロの呼び方を知る。それは単なるマナーの習得ではありません。 それは、彼らが命を削って生み出す芸術作品に触れるための、最初の「入場チケット」なのです。
将棋のプロの呼び方が分かったら、プロ棋士を深掘り

呼び方を知ることは、彼らへの入り口に過ぎません。 では、私たちが「先生」と呼ぶその人たちは、一体どのような道を歩み、どのような生活を送っているのでしょうか。 ここからは、ベールに包まれたプロ棋士の実像へ、深く切り込んでいきます。
プロ棋士とは?
「プロ棋士」——その響きには、華やかな天才のイメージが付きまといます。しかし、その実態は、残酷なまでの競争を勝ち抜いた「生存者」と言う方が正しいかもしれません。
将棋のプロ(正棋士)になるための正規のルートは、原則として一つしかありません。 それは、養成機関である「奨励会(しょうれいかい)」に入会し、そこでの地獄のようなリーグ戦を勝ち抜き、四段に昇段することです。
奨励会は、全国から集まった「地元の天才少年・少女」たちが、互いの夢を喰らい合う場所です。 入会試験すら難関ですが、入ってからはさらに過酷です。 来る日も来る日も、朝から晩まで将棋のことだけを考え、ライバルを蹴落とす日々。 将棋を題材にした作品でも、この奨励会の苦しみは頻繁に描かれますが、現実はフィクションよりも遥かに冷酷です。
「四段」になれるのは、半年ごとのリーグ戦で上位2名だけ。 何年努力しても、あと一歩で手が届かなくても、年齢制限が来れば強制的に退会させられます。 プロ棋士とは、その屍の山を越えて、それでもなお盤にしがみついた人間だけが名乗れる称号なのです。
現役プロ棋士の人数
これほど過酷な関門があるため、プロ棋士の人数は極めて少数に限られています。 2026年現在、現役で活動しているプロ棋士(正棋士)の人数は、およそ170名程度です。 日本の人口が約1億2000万人であることを考えると、彼らがいかに希少な存在であるかがわかります。
- 棋士(男性が主):約170~180名
- 女流棋士:約80名前後
このわずか250名ほどの人間たちが、日本の伝統文化である将棋の最高峰を支えています。 私たちは、ABEMA将棋チャンネルやDMM TVなどの画面越しに彼らの対局を気軽に観ることができますが、その一局一局が、選ばれし者同士の奇跡的な交錯であることを忘れてはいけません。
ランキング

プロになった後も、競争は終わりません。むしろ、そこからが本当の戦いです。 棋士たちの格付けは、「順位戦」と呼ばれるリーグ戦によって厳格に決められています。 これは、実力だけがすべてのピラミッド社会です。
順位戦のクラス分け
- A級(名人戦挑戦者決定リーグ):定員10名。ここでの優勝者が「名人」への挑戦権を得ます。将棋界で最も長い一日と呼ばれる最終局は、多くのファンの心を揺さぶります。
- B級1組:定員13名。「鬼の住処(すみか)」とも呼ばれ、A級への昇級をかけた熾烈な争いが繰り広げられます。
- B級2組
- C級1組
- C級2組
- フリークラス:順位戦に参加できない棋士たち。
このピラミッドを登るには、1年間のリーグ戦で勝ち越す必要があります。 A級棋士になるということは、全棋士のトップ10に入ることを意味し、それは「人間国宝」級の技術を持っていることと同義です。 彼らの棋譜を並べ、研究することは、将棋ファンにとって至高の学習です。将棋盤と将棋駒を用意し、名局を再現するとき、私たちは彼らの思考の宇宙に触れることができるのです。
年収
「勝負師」たちの懐事情は、完全実力主義の世界を色濃く反映しています。 プロ野球選手のように、数億円を稼ぐスタープレイヤーがいる一方で、対局料だけでは生活が厳しい棋士も存在します。
以下は、2024年の獲得賞金・対局料のランキングトップ10です。 この数字は、彼らが盤上で削った命の対価とも言えるでしょう。
| 順位 | 氏名 | 金額(万円) |
|---|---|---|
| 1位 | 藤井聡太 竜王・名人 | 17,556 |
| 2位 | 伊藤匠 叡王(当時) | 4,364 |
| 3位 | 永瀬拓矢 九段 | 3,026 |
| 4位 | 佐々木勇気 八段 | 2,900 |
| 5位 | 渡辺明 九段 | 2,594 |
| 6位 | 広瀬章人 九段 | 2,461 |
| 7位 | 豊島将之 九段 | 2,348 |
| 8位 | 山崎隆之 八段 | 2,124 |
| 9位 | 菅井竜也 八段 | 1,648 |
| 10位 | 羽生善治 九段 | 1,622 |
トップ棋士が数千万円から1億円以上を稼ぐ一方で、C級などの下位棋士の対局料収入は、これより遥かに少なくなります。 そのため、多くの棋士は対局以外にも収入源を持っています。
もしあなたが将棋の勉強を深めたいなら、Kindle Unlimitedで多くの棋書を読み放題で楽しむことができます。 また、ブックライブなどのサービスを利用して、彼らが魂を込めて書いた一冊を手に取ることは、間接的に彼らの活動を支援することにも繋がるのです。
年齢制限はなぜ?
将棋のプロを目指す若者たちの前に立ちはだかる、最も高く、冷酷な壁。それが「年齢制限」です。 奨励会には「満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了時までに四段に昇段できなければ退会」という鉄の掟が存在します。
なぜ、これほどまでに厳しいルールが必要なのでしょうか。 それは、将棋という競技が若さと才能に依存する残酷な側面を持つと同時に、組織としての「親心」も含んでいるからです。
20代後半といえば、社会では働き盛り。しかし、もし30歳、40歳になってもプロになれず、将棋以外のスキルを何も持たないまま社会に放り出されたらどうなるでしょうか。 年齢制限は、夢に破れた若者が「第二の人生」を歩み出すための、ギリギリの猶予期間でもあるのです。
このリミットがあるからこそ、彼らの青春はこれほどまでに輝き、そして散り際が儚いのです。 彼らが一局一局に込める執念は、対局時計が刻む秒音よりも重く、見る者の胸を打ちます。
フリークラス
プロ棋士になった後も、安住の地はありません。 成績不振が続くと、順位戦のクラスから陥落し、「フリークラス」という場所へ移ることになります。 ここは、順位戦(名人戦につながるリーグ)に参加できない棋士たちのグループです。
フリークラスには二種類あります。
- 宣言フリークラス:自ら順位戦を放棄し、フリークラスへ転出すること。高齢の棋士が、体力の限界などを理由に選ぶことが多いです。
- 陥落フリークラス:C級2組から降級点を取り続け、強制的に落とされた状態。ここからの復帰は極めて困難です。
フリークラスの棋士は、基本給とも言える順位戦の対局料がありません。 さらに、「10年以内」あるいは「満60歳まで」に規定の成績を挙げなければ、そのまま引退となります。 まさに、崖っぷちでの戦いです。 それでも彼らは、盤に向かいます。愛用の駒袋から駒を取り出し、最後の一手まで勝利への可能性を模索し続けるのです。
引退
将棋界における「引退」は、他のスポーツとは少し意味合いが異なります。 プロ野球選手などが引退すると「元プロ野球選手」になりますが、将棋棋士は引退しても「棋士(引退棋士)」のままです。
引退とは、「公式戦(対局)に出られなくなること」を指します。 しかし、日本将棋連盟の会員としての身分は残り、段位もそのまま(あるいは引退後に昇段することもあります)。 「先生」としての立場は変わらず、普及活動や指導対局、立会人として将棋界に関わり続けます。
引退した棋士が、扇子を片手に往年の名局を解説する姿には、勝負の鬼から好々爺へと変わったような、深い味わいがあります。 彼らの経験と知識は、後進を育てるための貴重な財産として受け継がれていくのです。
プロ編入試験

かつて、プロになる道は奨励会のみとされていました。しかし、制度の枠を超えた実力者の出現により、新たな扉が開かれました。 それが「プロ編入試験」です。
アマチュア選手や女流棋士が、公式戦でプロ相手に所定の成績(最も良いところから見て10勝以上、かつ勝率6割5分以上)を収めると、受験資格を得られます。 試験は、新人プロ棋士(四段)を試験官とした五番勝負。ここで3勝すれば、晴れてフリークラス編入の資格(四段)を得ることができます。
小山怜央
この制度の歴史において、特筆すべき人物が小山怜央(こやま・れお)四段です。 彼は、「奨励会を一度も経験せずにプロ棋士になった史上初の人物」です。
これまでプロ編入試験に合格した棋士(瀬川晶司九段など)は、みな一度は奨励会に入会し、挫折を経験した「元奨励会員」でした。 しかし、小山四段は純粋なアマチュアとしての活動から実力を磨き、棋書で独学し、AI時代の恩恵も受けながら、プロの牙城を崩しました。 彼のサクセスストーリーは、奨励会というルートに乗れなかった多くの将棋ファンに、「夢へのルートは一つではない」という希望を与えています。
よくある質問Q&A

Q. アマチュアでもプロに勝てますか?
現代ではトップアマチュアの実力は非常に高く、プロの新人や下位クラスの棋士に勝利することも珍しくありません。しかし、トッププロとの差は依然として厚い壁があります。プロ編入試験は、その「壁」を実力でこじ開けるための制度です。
Q. 女性のプロ棋士はいないのですか?
「女流棋士」という制度はありますが、男女区別のない「(正)棋士」における女性は、2026年現在まだ誕生していません。しかし、福間香奈女流五冠や西山朋佳女流三冠など、プロ棋士編入試験の受験資格を得るレベルの実力者が現れており、女性初の「棋士」誕生は時間の問題とも言われています。
Q. AI(コンピュータ)とプロ棋士はどちらが強いですか?
純粋な計算能力と勝敗のみで言えば、現在はAIがトッププロを凌駕しています。しかし、プロ棋士の価値は下がっていません。AIの示す手を解釈し、人間同士の心理戦の中でどう表現するか。その「過程」の美しさにこそ、私たちが感動する理由があるからです。
Q. プロ棋士になるにはいくらかかりますか?
奨励会の入会金や会費、遠征費などが必要です。しかし、何より莫大なのは「時間」というコストです。青春のすべてを将棋に捧げる覚悟は、お金には換えられません。駒台に置かれた持ち駒のように、出番を待つ長い忍耐の時間が必要です。
まとめ:将棋のプロの呼び方。静寂の盤上で魂を削る棋士へ捧ぐ敬意

「〇〇先生」「〇〇竜王」「〇〇九段」。 その呼び方一つひとつには、盤上の格闘家たちへの敬意と、彼らが積み重ねてきた歴史が含まれています。
プロ棋士とは、単に将棋が強い人たちのことではありません。 年齢制限という恐怖に打ち勝ち、勝負という修羅の道を歩み続け、伝統と革新の狭間で苦悩しながらも、私たちに「知の極致」を見せてくれる表現者たちです。
次に将棋中継を見るとき、あるいはイベントで棋士を見かけたとき、ぜひ心からの敬意を込めて名前を呼んでみてください。 その瞬間、あなたは単なる観客ではなく、将棋という深淵な文化を共有する当事者の一人になれるはずです。 盤上の物語は、駒を動かす彼らと、それを見つめる私たちの間にこそ生まれるのですから。

